25歳で脱サラし、「天才」落語家・立川談志に弟子入りするまで
大事なことはすべて 立川談志に教わった第1回
ま、愚痴はともかくとして、では、弟子入りしたらどんな生活が待っているのでしょうか。
弟子入りすれば、すぐに落語がしゃべれて、すぐに自分の世界が展開できる・・・というわけではありません。落語界は身分制度が厳然としていて、「前座」「二つ目」「真打ち」「大看板」、そして「ご臨終」というヒエラルキーがあるのです。
「二つ目」というランクになれて、初めて「落語家」として存在を認められます。要するに「前座」は、軍隊の用語で言うところの「員数外」なのです。
しかも入門と同時に、すぐに「前座」として寄席の楽屋で仕事をさせてもらえるわけではありません。まずは、いわゆる「前座名」(前座としての名前)がつくまでは、「見習い」という時期を過ごさねばなりません。
その際、「住み込み」か「通い」か、どちらかの選択を迫られます。最近はほとんどが「通い」という形で師匠宅の近所にアパートを借りたり、自宅から通う弟子生活が始まります。
私の場合は、師匠の自宅のある練馬区の大泉学園の近くに家賃2万円のアパートを借りて修業生活をスタートさせました。
私の入門後に立川流では前座が何人もやめたりする状況が続いたことと、それ以上に、これからお話する私の天性のドジ炸裂で、そのたびに師匠の逆鱗に触れ、「見習い」から「前座」になるまで1年2ヶ月も要しました。
そうしてついた名前が「立川ワコール」。たまたま師匠の愛読紙であった「東京新聞」にワコールの創業者である塚本幸一氏の半生記が掲載され、それを読んでいたく感動した師匠が、「お前が前にいた会社の会長は立派だなあ。爪の垢でも煎じろ」との願いを込めてつけてくれた愛すべき名前でありました。
「やっと立川流の一員として、談志の弟子として、認められたのだなあ」
そううれしくなったのを思い出しました。
早速、退社する際に「お前、オモロイやつだから、やめるなよ」と言って慰留してくださった塚本能交社長に仁義を果たすべく、「立川ワコール」を名乗る旨の挨拶状を書きました。
あとあと知ったのですが、当時のワコール上層部は私ごときが「ワコール」という登録商標を名乗るのにかなりオカンムリだったそうです。それが社長の鶴の一声、「まあ、ええんちゃう」ですまされたとのこと。今あらためて感謝する次第であります。
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いかがだったでしょうか。談慶さんは日本の女性下着最大手、ワコールに勤めていたのです。そこを飛び出し談志師匠のもとへ。そして修行の始まり…。ここからが今後の波乱に満ちた話の発端となっていくのですが、それはまた追々ご紹介していくことにします。
では、次回は「前座」にも満たない「見習い」時代の話から、落語家の「前座修行」ついて談慶さんが目で見て、肌で感じた様子を教えてもらいます。その中には“人間対人間”の付き合い方を考えるヒントが隠されています。では、今回はこのあたりで。